大人の音
子どもたちの寝かしつけが一段落して、ほっと一息。
先に妻から「コーヒーありがとう。」と感謝されたので、それからお湯を沸かしました。
コーヒーの用意と、ついでに自分用の紅茶の用意を整えて、お湯が沸くのを少し待ちます。
お湯が沸いたら準備してあった特におそろいでもない普通のマグカップにお湯を注いでかき混ぜます。
カランカラン、と紅茶の音。
コツンコツン、とコーヒーの音。
贅沢はできないけれど、
ちょっとした大人の時間、
ちょっとした大人の音。
子どもたちの寝かしつけが一段落して、ほっと一息。
先に妻から「コーヒーありがとう。」と感謝されたので、それからお湯を沸かしました。
コーヒーの用意と、ついでに自分用の紅茶の用意を整えて、お湯が沸くのを少し待ちます。
お湯が沸いたら準備してあった特におそろいでもない普通のマグカップにお湯を注いでかき混ぜます。
カランカラン、と紅茶の音。
コツンコツン、とコーヒーの音。
贅沢はできないけれど、
ちょっとした大人の時間、
ちょっとした大人の音。
人にしかできないこととされるのが、笑う、ということだそうです。
ですが、その、笑う、というのは実は人情の上にじわーっとわき上がってくるものではないのかなぁと思うのです。
人情。それが何なのかははっきりとはわかりません。
人の情け、人が人を思う気持ち、人が一番辛いときに、それを笑いに変えてくれるもの。
それこそが、人にしかできないことなのではないかなぁと思うのです。
仕事をしてお金を稼ぐ。
それは自分のもの。
自分が稼いできた自分のお金。
ずっとそう思っていました。
結婚して、家族ができて、
仕事をしてお金を稼ぐ。
それは家族のもの。
家族全員で稼いだ家族のお金。
そう思えたとき、ただただ感謝するしかありませんでした。
「はなびー!はなびだー!」
今年の夏に花火を見てから娘は花火が大好きになったようです。ただ、夏の頃は花火の写真やテレビのCMなど、見る機会は多かったのですが、夏が終わるにつれてその機会も少しずつ減っていき…
そんなあるとき、家族で本屋に行って絵本を買いました。それは娘の好きな、くれよんのくろくん、が出てくる絵本でした。すると見開きいっぱいの夜空に、たくさんの色のくれよんで大きく開いた花火が。
娘はひとしきり大喜びしたあと、しばらくじーっと花火を見つめていました。そうすると突然絵本の花火を指でつまんで口へぱくっと。そしていつものままごとみたいに、小さな口でもぐもぐ。
「おいしい?」
「おいしー!」「あまーい!」
「甘い??」
「あまーい!!」
もちろん初めて食べたはずの花火、娘にとってはもちろん、もしかすると子どもたちにとって、花火はお菓子のように見えているのかもしれません。夜空に浮かぶ、大きな大きなお菓子の花火。
それはとっても甘い味がするみたいです。
これは果たして「していいこと」なのだろうか?「してはいけないこと」なのだろうか?
もしそれを考えることなく、本当に時に流されるままに過ごすことができたとしたら、全てのことから解放されるのではないかと思いました。
ただ私ごときの若輩者にはそのような幸せはまだまだ早いのだと思いました。
それは知る権利と呼ばれています。
毎日毎日押し寄せる情報。知りたくもない情報。情報に速さというものがあるのなら、その速さ以上の速さで逃げ切りたい。
毎日毎日吐き気と一緒に玄関を開け、息をするたびに情報が口に詰まりすぎて吐くこともできず、知りたくない権利がその速さで侵されていく。
そんな権利です。
「パパ、待ってよー!パパ、待ってよー!」
遠くから両手を広げて一生懸命走ってくるキミ。
パパとママがちょっといじわるして少しだけ先に行っちゃってもビニール袋をその小さな手に握りしめて一生懸命どんぐりを拾っていたキミ。
絵に描いたような木漏れ日の中、黄色や赤の落ち葉のみぞを足でかき分けかき分け一生懸命歩いて行くキミ。
コスモスの広場をくるくると、そう思えばまーっすぐに一生懸命駆けていくキミ。
ちょうちょを見つけて芝生のはしまで一生懸命追いかけていったキミ。
「パパ、抱っこ!」
はは、疲れちゃったんだね。ずっと一生懸命だったもんね。ゆっくり休んだら、また明日一緒に遊ぼうね。一生懸命の笑顔で。
仕事をしていて悩むことの一つに、「自分でなくてもできる仕事じゃないのか?」「自分以外の人の方がもっと適していると思うのにどうして自分がこの仕事をしているのだろう?」というようなことがあるかもしれません。
確かに全ての仕事は自分でなくてもできるのでしょう。誰か他の人がやった方がいいことだってたくさんあるでしょう。私も考えて悩んだことがあります。その結果おぼろげながらたどり着いたのは、今、その仕事をする番は自分なんだ、ということでした。そしてそれを次の番の人に渡すまで一生懸命やるだけでいい、ということでした。
・政治に対して、無関心ではいけない、と初めて危機感を持ったこと。
・tumblrで、極力ソースを見て、Reblogするようになったこと。
それが私にとってこの数週間の中で変化があったことです。
世の中における「信頼性」について考えるきっかけを皮肉にもこんな末端の私にさえ与えてくれたことはありがたいことかもしれません。
ただ、たとえきれいごとと言われたとしても、国民が選んだ政治家の皆さんには、できれば世の中を疑わなくて生きていける時代を作って欲しかった。一種の他力本願かもしれませんが、そう思いました。今、私の中では「信頼」という言葉が単語として成り立っていません。今までたくさんの人に大きくも小さくも裏切られたりといった感覚はありましたし、経験をしてきました。しかし今回、物理的でないものが音を立てて崩れるという感覚を初めて体験しました。
最近のニュースで気づいたことが一つあります。それは執拗までに国名を告げるということ。APEC開催というのももちろんあると思いますし、日中関係、日ロ関係、日米関係、ミャンマー、そして人形に間違った民族衣装を着せられていた…などなど、いろんな情勢があるのはわかります。わかるんですが、同時に何とも言えない思いが生まれるのはどうしてなんでしょうか。
どこを見ても、我が国、我が国。パスポート一つで誰でも行ける、いろんな我が国。
プシュー。その瞬間、足下がぽわーんと温かくなりました。それは朝の通勤電車でのこと。最寄りの駅は各駅停車しか止まらず無人駅。そういうところの路線。時間が少しずれているならさらに車内はそれほど混んでいません。満員電車ではないけれど、座ることはちょっとできないような、ちょうどいい感じの車内の雰囲気で、みんなぽわーんとしているような気がします。
そんな中、つまらないけれど、でも知っておかないといけないようなニュースに目を通しているところでそれが起こったのです。途中の駅に着いてドアが開いたとたんに、まるでガラガラの電車にわーって叫びながら入ってくる遠足途中の子どもたちのような、黄色い帽子が一面に見えるような暖かさが、彼らがすり抜けていったところからぽわーんと伝わってきました。